世界の人形館からの夢メッセージ

夢と寛ぎを紡ぐワールドスクエア
アフリカ開発会議(TICAD7)に想うアフリカの問題点と魅力
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 TICAD7、即ち第7回アフリカ開発会議の宴は終幕した。アフリカ42ヵ国の首脳級を含む53ヵ国の関係者など総勢1万名が参加した大々的な会議が、8月28日〜30日に横浜で開催された。会議では、中国の過剰な貸し付けで返済が出来なくなる、いわゆる「債務の罠」も主要テーマになった。最終日に採択された首脳宣言も、インド洋への海洋進出を狙い、アフリカで着々と実績を積み上げる中国を暗に牽制した感じである。豊富な資金力にものを言わせてアフリカ大陸を席巻する中国に対し、我が日本は量より質の内容で挑むが、どう見ても劣勢は否めない。むしろ、その差は広がる一方だ。

 

TICAD7に出席した首脳陣の記念撮影(ネットより転用加工)   

 

 実はアフリカへの進出は、我が日本より中国のほうが遥かにキャリアのある大先輩なのだ。戦後に経済進出した日本に対し、中国の華僑は戦前からアフリカのほぼ全土で中華料理店をやるなど根を生やして来た。どんな不便なアフリカの奥地に行っても中華料理店がちゃんとあるが、日本料理店は無い。筆者が食事に困った時に救われたのが中華料理店であり、命の恩人と思ったことも多々ある。急速に発展した戦後は世界の工場となり、中国商品がアフリカ市場で氾濫する。近年は石油など資源確保のため、習近平主席など首脳外交を展開して頻繁にアフリカを歴訪する。日中両国の力の入れようには雲泥の差があるのだ。

 

 加えて、主にアフリカの東部や南部を牛耳るイギリス、アフリカの西部や北部に強いフランスのほかに、ポルトガル・イタリア・ドイツなど植民地時代を制覇した旧宗主国の欧州勢の影響力が依然として健在だ。オリンピックなどで活躍するヨーロッパ選手の肌の色を見ると黒人がいかに多いか、そのほとんどがアフリカ出身であることを知らされる。かつてヨーロッパ諸国に搾取されたと言いながら、彼らは依然として旧宗主国に憧れを持っているのだ。また、白人の支配に耐えて鍛えられたアフリカ人は、ビジネスでも意外なほどの強かさを持ち侮れない。

 

 

 日本政府としては、今後は国からの援助よりも民間投資を重視する意向だが、受け皿になる日本企業はリスクが大きいため困惑しよう。将来性のあるビッグマーケットと認識していても、インフラ不足や横行する賄賂要求で進出に二の足を踏むようだ。実際に日本とアフリカの貿易は10年前の半分で、中国のわずか10分の1以下である。貿易が増えなければ、当然に投資も増えないであろう。政府の掛け声だけは勇ましいが、民間企業がフォローするかは疑問だ。また、アフリカと言っても、サハラ砂漠を挟んで北部と南部では一様ではない。イスラム教国が多いアフリカ北部は、むしろ中東諸国に近い。

 

 斯様に多様で広大なアフリカ大陸を、私ことワールド・トラベラーは1973年3月に初めてエジプトを訪れて以来、2011年11月にスーダンへ旅するまでアフリカ55ヵ国全てを踏破した。詳細は下表の通りである。因みに、現役時代の商社マン(三井物産)時代は、実際にアフリカで商売した経験がある。例えば、エジプト、エチオピア、ケニア、南アフリカなど。

 

アフリカ  55ヵ国・3地域
北アフリカ 南スーダン ニジェール
アルジェリア 中央アフリカ 西サハラ
エジプト ガボン ブルキナファソ
エチオピア カメルーン ベナン
エリトリア コンゴ マリ
ジプチ コンゴ民主 モーリタニア
スーダン サントメプリンシペ リベリア
チュニジア 赤道ギニア 南アフリカ
モロッコ チャド アンゴラ
リビア 中央アフリカ ザンビア
メリリャ 西アフリカ ジンバブエ
セウタ カーボベルデ エスワティニ  
東アフリカ ガーナ レソト
ウガンダ ガンビア ナミビアナ
コモロ ギニア ボツワナ
ケニア ギニアビサウ マダガスカル
セイシェル ートジボアール マラウイ
ソマリア シエラレオネ 南アフリカ
タンザニア セネガル モーリシャス
ブルンジ トーゴ モザンビーク
ルワンダ ナイジェリア レユニオン

註:は地域

 

 ビジネス面でリスクが多いアフリカは、観光面でも様々なトラブルと言うリスクを抱えるが、同時にサファリなど旅人を魅了する見どころも実に多い。要するに、様々な問題点と魅力が背中合わせになっているのだ。トラブルに就いては、筆者(ペンネーム:高やすはる)には下記の著書がある。お求めはAmazon、書店、世界の人形館で可能。

 

トラベル・イズ・トラブル  安全な旅は退屈だ! 

 ルネッサンス・アイ  本体定価 1,300円

トラベル・イズ・トラブル パート2  楽でない旅こそ最高だ!

 ルネッサンス・アイ  本体定価 1,300円 

たった272の国と地域を制覇した77歳のワールド・トラベラーはたった1人で紛争地を旅した

 幻冬舎 本体定価 1,400円

 

 最後に、筆者の印象に強く残ったエキサイティングなアフリカの観光スポットと写真を紹介しよう。

 

 

 エジプト:スフィンクスと リビア:レプティス・マグナス

    ピラミッド       遺跡の円形劇場

 

 

エチオピア:ラリベラ岩窟教会 モロッコ:サハラ砂漠で

                 ラクダ乗り

 

 

  ケニア:ナイロビ郊外の  マリ:ドゴン族の仮面踊り

         ジラフセンター

 

 

マダガスカル:モロンダバ ウガンダ:ブウィンディ国立
 近郊のバオバブの並木道  公園のマウンテンゴリラ探検

 

 

南アフリカ:アフリカの南端、ジンバブエ・ザンビア国境:

 ケープ半島の喜望峰     ビクトリアの大瀑布

 

アフリカ万歳! Viva Africa !

 

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| 世界の旅ーアフリカ | 11:54 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - | ↑TOP
世界最強になった日本のパスポートと苦労したアンゴラ旅行
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 英国のコンサルティング会社、ヘンリー&パートナーズが最近公表した資料によれば、ビザなしで渡航できる国・地域の数を基準にしたパスポート(旅券)の強さ指数で我が日本が世界一になった由。即ち、日本のパスポートを所持していれば、ビザ(査証)なし或いは到着時のビザ申請で入国できる国・地域が190にもなり、今年の7月時点まで並んでいたシンガポールを追い抜いて単独1位になったのである。次に同指数の3位は188ヵ国・地域のドイツ・フランス・韓国、6位は186のアメリカ・イギリスだ。

 因みに、中国は74ヵ国・地域で71位、北朝鮮は42ヵ国・地域と制裁を受けている割には少なくはない。また、調査した199ヵ国・地域の最下位はイラクとアフガニスタンの30ヵ国・地域であった。一方、日本への入国時にビザが免除されているのは68ヵ国・地域に過ぎず、従来より難民や移民受け入れに消極的な閉鎖性を如実に物語っている。2年後に東京オリンピック・パラリンピックを控え、もっと大胆に門戸開放するグローバル化の推進が喫緊の課題であろう。

 

  ところで、パスポートの強さ指数とは、具体的にどう言うことを意味するのであろうか?この指数が高いほど国際社会での信用度が高く、信頼されていることに他ならない。国が経済的に豊かであるのは勿論、日本人の勤勉さやマナーの良さ、治安が良好で人権問題を抱えていない、国際的な協調性なども考慮されての事であろう。他方、発展途上国や独裁国家では上記の諸点で問題があるようで、全般的に指数は低い。

 今では日本人の海外旅行は当たり前になり、お金と時間があり健康であれば誰でも外国へ出かけられる時代だ。しかし、筆者が初めて異国の地を踏んだ半世紀前は、外国への旅立ちは様々な制約があった。第一は携行できる外貨は500米ドルと言う制限があり、筆者のような輸出で外貨を稼いで国に貢献していた商社マンにもこの外貨持ち出し制限が適用された。第二は渡航国のビザ取得で、敗戦の後遺症で国自体が貧しく国際的地位も低かったため、昔は日本に対してビザ取得を求める国が多く渡航前に苦労したものだ。

 

 因みに、筆者は過去半世紀にわたり272ヵ国・地域を旅した故に、外務省発行のパスポートは合計13冊にもなり、うち12冊を所持している。しかも、年間20回近く出国した年もあり、増補した分厚いパスポートが数冊もある。このパスポートで目を引くのが渡航国・地域のスタンプで、その通常の形は円・正方形・長方形・楕円形などである。しかし、最も印象的であったのが、南太平洋に浮かぶクック諸島のアイツタキ島に入島した時に押されたスタンプだ。なんと足の形をしており、ワンフットと言う名前の絶景の島まであるのだ。

 

    

     筆者が所持するパスポート  クック諸島のアイツタキ島

                    のスタンプ   

 

 日本のパスポートが世界最強になったとは言え、今もビザ取得を求める国が多く、またその取得が容易でないのがアフリカである。特にビザ問題で最も苦労し、さらに滞在中はトラブル続きであったのがアフリカ南西部に位置するアンゴラだ。2007年2月に訪れた苦難連続の旅の模様を紹介しよう。

 

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 ワールド・トラベラーと呼ばれる筆者は、一旦ある国の旅を決断したら、概ね1年以内に実行し訪問する。だが、唯一の例外はアンゴラであった。この国の旅行を企画したのは20年以上も前であったが、1975年にポルトガルから独立間もなくから内戦になり入国ビザ取得が困難であった。そこであらゆる手段を講じ、その究極はアンゴラ大使館があるパリまで赴いたが、フランスでの保証人がいないため断られた。

 2002年内戦終結後に東京に大使館が開設されると、すかさずビザを申請したが発給されなかった。やはりダメかと半ば諦めていたところ、半年後に突然取得できたが、異例の観光ビザ発給であったらしい。2007年にやっと念

アンゴラの入国ビザ

願のアンゴラ入国を果たしたが、内戦の傷跡は想定以上に深刻であった。観光どころでないのが実情で、他国ではあり得ない様々なトラブルに遭遇した。

 

 首都ルアンダには27年も続いた内戦の影響で内陸地域から避難民が大量に流入し、都市計画の7倍ほどの人口(約400万人)が集中していた。極端なホテル不足に加え、鉄道やバスなどの公共交通機関が無い。また、驚くなかれタクシーも営業していないため、移動は極めて困難であった。空路で地方へも出かけたいと思ったが、ルアンダ市内の航空会社オフィスも空港の切符売場も窓口は人だかりでいっぱいで簡単にチケットが買えないことが分かった。結局、ホテルのレセプションに知り合いの白タクの手配を頼み、ルアンダ市内と南郊外のムスロ島やクワンザ川などを観光した。

 

  

   ルアンダの中心バイシャ地区 メインストリートの2月4日通り

                   を散策する筆者

 

 しかし、運転手は普段は会社勤めをしており、仕事が終わってから、或は仕事の合間を利用して白タクをするので何時に来るのか分からない。待ちに待ってやっと来た運転手にルアンダ市内と周辺の各地を案内してもらったが、車を降りる時に請求された金額が時間当たり驚くなかれ100ドルだ。物価高とは言えと法外に高いので、値下げ交渉を試みた。ホテルのレセプションマネージャーの仲介で鋭意交渉し、一般相場の時間当たり30ドルで手を打った。高いのは白タクばかりでなく、ホテルやレストランの料金も異常なほど高い。

 

 滞在中はほかにも体調不調のトラブルがあった。蒸し暑くて日差しの強いルアンダ市内を約3時間も休まず歩き続け、ポルトガル植民地時代の名残りを留めるバイシャ地区の2月4日通りなどを散策した。しかし、その間に水分補給を全然しなかったため、宿泊していたホテルの50m手前の路上でぶっ倒れて暫らく意識不明になった。日射病にかかり脱水症状になった模様で、思いのほか坂道が多いのも老体にこたえたらしい。

 突然のハプニングに近所の人々が驚き、大勢集まって来たのであろう。気が付いてみると、見知らぬ親切な人たちに取り囲まれていた。冷たい水をくれるなど、思いも寄らぬ手厚い介護に大感激し、洋の東西を問わない人々の親切に感謝した。お陰ですぐに回復したので病院に行かずに済んだが、古希(70歳)を迎える直前の体力の限界を痛感した。

 

  

  ムスロ島のビーチを散策   路上で倒れ意識不明になる

 

 アンゴラ訪問の主目的であった観光は、ルアンダの旧市街がポルトガル植民地時代の面影を残し情緒がある。だが、ルアンダの郊外も含め、旧市街以外は見どころが少ないのでがっかりした。実際に現地に来てみて、東京のアンゴラ大使館が簡単に観光ビザを発給しない理由がやっと分かった。長引いた内戦の影響で余裕が無く、観光どころでないのが実情であった

 

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               ◇◇◇  ご案内  ◇◇◇

 

 筆者にはアンゴラに関する次の著書があり、ご関心ある方は是非ご購読下さい。

 

●『 272の国と地域を制覇した ●『トラベル・イズ・トラブル

  77歳のワールド・トラベラーは  安全な旅は退屈だ!!  

 たった1人で紛争地を旅した』  ルネッサンス・アイ

 幻冬舎 定価1,400円+税     定価1,300円+税

     

 

 幣著書のお買い求めは、アマゾンなどインターネットショッピンや、最寄りの書店で可能です。なお、書店やネットショッピングで入手不可能の場合は、在庫がある世界の人形館でお求めください。

お問い合わせ:
世界の人形館 TEL 04−7184−4745
        E−MAIL 
 ko-yasu@maple.ocn.ne.jp

 

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| 世界の旅ーアフリカ | 00:57 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - | ↑TOP
 国名変更するアフリカ最後の絶対君主国スワジランドの旅
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 「信無くば立たず」「膿を出し切る」などと度々仰るが、一向に潔く退陣しない我が総理。僭越ながら申し上げれば、或る意味では独裁者かも知れない。他方、アフリカの或る国で様々な非難を浴びているユニークな独裁者がいる。

 

 スイスは小学生でも知っている国だが、アフリカ南部のスワジランドを大人でも知っている人は僅かであろう。この両国の国名が紛らわしいとして、このほど同国の国王ムスワティ3世(50歳)が国名を「エスワティニ」に変更すると発表した。つまりスワジランドの国名表記「Swaziland」が、スイスの英語表記「Switzerland」と勘違いされることを防ぐためとか。

 面積は四国とほぼ同じ1万7363k屬如⊃邑は約130万人。南アフリカとモザンビークに囲まれた小さな内陸国は国際社会ではほとんど無名だが、1986年に即位した現国王はアフリカで最後の絶対君主として知られる。なんと夫人は15人もいるが、前国王のソブーブ2世は100人を超す妻がいた豪傑とか。多数の妻のためにいくつもの宮殿を建設するなど豪奢な私生活ぶりや、強権統治に対し人権団体から再三批判されてもいる。

 

 

                                   国王ムスワティ3世

 

 ところで、新国名のエスワティニだが、英語と共に公用語になっているスワティ語の名前で、”スワジの地”を意味する。因みに、国名変更例としては、ローデシア ⇒ ジンバブエ、ビルマ ⇒ ミャンマー、キルギスタン ⇒ キルギス、グルジア ⇒ ジョージアがある。また、最近ではバルカン半島の小国・マケドニアがギリシャから国名変更を迫られており、詳細は2018年3月7日付け幣ブログ『国名変更で揺れるマケドニア紀行』で紹介済みだ。

 さて、1968年にイギリスから独立したスワジランドで有名なのがHIV感染率が世界最高で、エイズ蔓延などで平均寿命は40歳台と言われる。また、近年アフリカで圧倒的に覇権拡大を続ける中国に対し、スワジランドは台湾を国として外交関係を結ぶ数少ない国の一つでもある。日本人も滅多に訪れないであろう稀有な国を、272か国・地域旅した私ことワールド・トラベラーは2001年11月に訪れており、その模様を紹介しよう。

 

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 もちろんスワジランドへの直行便は無く、成田から香港と南アフリカのヨハネスブルグで乗り継いで向かった。先ず同じような内陸国レソトに寄った後、またヨハネスブルグ経由でスワジランドの玄関・マンジニに着いた。首都は人口約6万人のムババーネだが、そこから南東41km、エズルウィニ渓谷の東に位置するのが、最大の町マンジニである。

 同国唯一の商工業都市で、人口は約11万人。ダウンタウンは思いのほか大きく、なかなか活気があるが特に見るべきものはなく、見どころは近郊である。空港があるマツァファは標高が約1000mだが意外に暑く、一面のパイナップルやサトウキビの畑が広がる。また、ろうそく工場やバティック工場があり立ち寄った。

 

   

  マンジニのダウンタウン  マツァファのパイナップル畑

               でのワールド・トラベラー

 

 観光スポットが多いのは、標高1500mほどの高原と渓谷が美しいエズルウィニ渓谷の一帯であるその中心がロバンバで、王宮と議会が置かれている王都である。渓谷内にあるマンテンガ自然保護区の中には、スワジ族の伝統的な村を再現したスワジ民族文化村がある。昔ながらの草葺の家に一夫多妻制のスワジ族家族が実際に住んでおり、興味ある文化や風習を色々見せてれる。

 

  ( マンテンガ自然保護区のスワジ民族文化村を訪れた筆者 )

    

 

 一方、泊まったロイヤル・スワジ・サン・ホテルは、カジノや広大なゴルフ場付きの豪華なリゾートホテルだ。緑の芝生と花が咲き乱れる森に囲まれ、美しいプールサイドでうたた寝をして至福の時を過ごした。また、スワジ文化を展示する国立博物館は質素な佇まいの建物だが、素朴な展示ぶりがむしろ印象に残った。

 

 

        エズルウィニ渓谷     ロイヤル・スワジ・サン・

                  ホテルで寛ぐ

 

 スワジランド各地を回った後は、車で隣国のモザンビークへ向かった。ほぼ一直線のきれいに舗装された道を約100km、2時間走ると標高はどんどん下がり、インド洋に面する首都マプトに着いた。涼しい高原地帯にあるスワジランドに比べ、暑くて湿気があった。この旅ではモザンビークを出た後は、ザンビア・タンザニア・コモロ・南アフリカを周遊し、3週間に及ぶ刺激的なアフリカ紀行を堪能した。

 

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 スワジランドでは、国王に強大な権力が集約され、政府の要職の多くを王家が占めるなど絶対君主制の様相を呈している。また、国民の僅か1%ほどの白人が経済の実権を握り、私有地の大半を保有する。人々の生活水準は低く、電力の約80%を南アフリカからの輸入に依存する。更に国民の1/3が貧困層の窮状を無視し、王室費だけでは飽き足らず少ない国家予算に手をつける始末だ。

 特に多数の妻のためにいくつもの宮殿を建設するなど、その散財癖が各国の非難を呼んでいる。また、処女のみが参加を許されるリード・ダンスという国王のためのダンス儀式も毎年恒例となっており、数万人もの処女が参加する。しかも、参加した女性の中から、国王は新しい妻を選ぶようだ。一方、国王は自分より強い者とは戦わないと言う不戦も貫いており、何かと話題の多い御仁のようである。

 

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| 世界の旅ーアフリカ | 20:22 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - | ↑TOP
ムガベ大統領辞任で国民が歓喜するジンバブエの想い出
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 冒頭に私事で誠に恐縮だが、最近気掛かりで仕様が無いことが2つある。1つはこのブログで度々取り上げている終末期を迎えている妻の病状であり、もう1つは今月初めに80歳の人生で初めて入院・手術した前立腺肥大である。その予後が思わしくなく、入退院を度々繰り返していることだ。病院の担当医を信じ、気長く治療に専念する他あるまい。

 

 さて、我が国では必ずしも知名度高くはないが、欧米では「世界最悪の独裁者」として知られるのが、南部アフリカのジンバブエのロバート・ムガベ大統領である。御年がなんと93歳、37年間の長きにわたり独裁者として君臨してきた大統領が、ついに一昨日(11月21日)辞任した。その高齢で最高権力者の地位に長くあることが、腐敗し歪んだジンバブエ政治を象徴していると言えよう。近年は悪評だらけの独裁者と酷評されるムガベ氏だが、かつては多くのジンバブエ国民にとって英雄であり、欧米諸国との関係も良好であった。

 因みに、ジンバブエは19世紀に入植した英国系白人の子孫が支配し1923年に英国の植民地になった後、1965年に少数派の白人がローデシアとして独立した。しかし、1960年代から白人支配に抵抗する黒人ゲリラ組織、ジンバブエ・アフリカ民族同盟・愛国戦線(ZANU-PF)が台頭し、そのリーダーがムガベ氏であった。白人政権とZANU-PFは最終的に、英国政府が仲介して1979年に和平合意し、1980年にジンバブエとして英国から独立した。首相に就任したムガベ氏独立後に欧米諸国との友好関係を確立する一方、国内的には黒人と白人の共存を模索した。

 

 当時のジンバブエは、人口の1%にすぎない白人入植者の子孫が耕作可能な土地の約半分を所有していた。このいびつな社会構造を解消するため政府は希望する白人地主から土地を買い上げ、黒人に配分する政策を実施した。1987年にムガベ氏は大統領に就任し政治や社会の安定をベースにした経済成長は「ジンバブエの奇跡」と呼ばれ、欧米諸国からも高く評価された。しかし、1990年代の末頃から、同大統領には権力の私物化が目につくようになった。例えば、40歳以上も若い妻のグレース夫人による、海外の高級ブランドショップでの爆買いだ。また最近では、妻を副大統領に指名しようとした。

 

   

   大統領を辞任したムガベ氏  天文学的な数字の100兆ジンバブエ・ドル

 (ネットより転用・加工済)

 

 また、2000年に白人の財産を保障なしに没収する法案を議会が可決し、個人の私有財産の侵害という人権問題に欧米は強く反発し、多くの国が経済制裁を科した。その後経済状況は悪化し、膨らんだ財政赤字を解消するため通貨ジンバブエ・ドルを乱発した結果、2009年には2億3千万パーセント以上のハイパーインフレが発生した。100円の缶ジュースが700億円に暴騰する始末で、ジンバブエ・ドルの発行が停止された。だが、ムガベ氏は経済崩壊の責任は自らの失政ではなく、欧米の経済制裁を口実にし欧米諸国との対立は益々深まった。

 

 このような背景のもと反旗を翻したのが軍で政権中枢を掌握し、新大統領には前副大統領であったムナンガグワ氏が就任する。独立の英雄が長期支配の間に強権政治を進めたため独裁者と批判され、挙句の果てはZANU-PFがムガベ大統領の党首解任を決め大統領の座を追われた訳だが、「一強他弱」が続き長期政権を目論むどこかの国の領袖も他人事ではなかろう。筆者はそんな政変劇があったジンバブエを1994年7月と1999年2月に訪れており、その旅の模様を紹介しよう。

 

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  ジンバブエはアフリカ南部にあり、ザンビア・南アフリカ・モザンビーク・ボツワナに囲まれた内陸国である。面積は日本より少し広い39万k嵳召世、人口は我が国の9分の1の約1450万人に過ぎない。綿花やタバコなどの農業が盛んで、金・ダイヤモンド・プラチナなどの鉱物資源にも恵まれている。経済制裁を科す欧米に対し、経済的結び付きを強化して接近するのが中国である。

 見どころは、なんと言ってもザンビアとの国境にあるビクトリアの滝であろう。南米のイグアス滝、北米のナイアガラ滝と共に世界三大瀑布に数えられ、最大幅は約1700m、最大落差は108mもある。1855年イギリス人探検家デビッド・リビングストン によって発見され、現地名はモシ・オ・トゥニャと言う。「雷鳴の轟く水煙」の意味で、見ごろの時期は水量の多い3月〜7月。

 

  

                ビクトリアの滝                  ビクトリアの滝を背にする筆者

 

 滝の全景はジンバブエから見た方が迫力あるが、ザンビア側では中州まで歩いて行け滝壷を眺めることができる。大地の割れ目に落ちる「水のカーテン」と、轟音と共に150m以上も舞い上がる水煙が圧巻だ。また、水煙の中に綺麗な虹がかかり幻想的で、大自然の営みの素晴らしさを肌で感じることができる。一方、緑濃いザンベジ川をゆったりと下るサンセット・クルーズは、夕日に染まる大河の時が止まったかのような悠久の流れに身を任せるような情緒に浸れ、至福のひと時を満喫した。

 

 標高1484mの高原に位置し、人口が200万人を超える近代的な首都ハラレは、南ローデシア時代はソールスベリーと呼ばれた。英国風の街並が美しい高原都市は、夏でも平均気温は20度程度と涼しい。意外と思えるくらい近代的な高層建築物が建つハラレ市内のパノラマを楽しむなら、ザ・コピーという丘が最適だ。オランダ語で「丘」を意味し、ハラレ発祥の地である。ジンバブエ紙幣のデザインになっているチレンバ・バランシング・ロックは、東郊外のエプワース にあり、微妙なバランスを保つ3つの団子状の岩などが見どころ。

 

   

     コピーの丘よりハラレ市内を望む  チレンバ・バランシング・ロック

 

 一方、ハラレの南約310kmの山中にあるジンバブエ大遺跡は黄金伝説を生み、11〜18世紀に栄えた黒人王国、モノマタバ王国時代の独特な石造建築遺跡である。ジンバブエとはショナ族の言葉で「石の家」という意味で、国名はこの遺跡に因んでいる。 丘の上にある高さ120mの精巧な石壁がめぐらされたアクロポリス神殿、50ジンバブエ・ドル紙幣のデザインになっている円錐塔、住居跡であった谷の遺構、ショナ族の文化村ショナ・ビレッジなどがあるが、特に見逃せないのが周囲240mの巨大な囲構エンクロージャーだ。

 

    

        ジンバブエ大遺跡を俯瞰       囲構エンクロージャー

 

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                   ◇◇◇  ご案内  ◇◇◇

 

世界の人形館のご見学

 筆者が館長を務める世界の人形館では、272カ国・地域の民俗人形、紙幣とコイン、仮面、壷、置物、絵画、木彫り、地球儀、時計、照明ランプ、絵皿、万華鏡などを多数展示しています。ご興味ある方はご遠慮なく、お気軽にご来館下さい。慈善活動につき、入館料は無料です。

 

    −−− 国境の無い平和な「世界の人形館」の館内風景 −−−

  

 但し、セキュリティなどのため、下記要領で必ず予約をお願いします。
TEL:04−7184−4745 又は Eメール: ko-yasu@maple.ocn.ne.jp 

 

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「駆けつけ警護」の閣議決定と南スーダンの超危険な旅
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 安保法、初の閣議決定! 安倍内閣は本日(11月15日)、南スーダンの国連平和維持活動(PKO)に派遣する陸上自衛隊の部隊に、安全保障関連法に基づく新しい任務「駆けつけ警護」を付与することを閣議決定した。昨年9月に成立した同法に基づき海外での自衛隊任務が拡大されるのは初めてで、稲田朋美防衛相は閣議決定を受けて18日にも部隊に対して命令を出す。

 閣議後、同防衛相は記者団に「自衛隊の国際平和協力活動の良き伝統を守りながら、南スーダンの平和と安定のため活動するよう期待している」と述べた。駆けつけ警護は、離れた場所で襲われた国連職員やNGO職員などを助けに向かう任務である。自らを守る武器使用を超えて任務遂行のため武器使用が可能になり、近々現地へ出発する部隊に付与する新任務は12月12日からとか。

 

 2011年7月9日に独立した、世界で最も新しい独立国である南スーダンは、2013年12月のキール大統領派の政府軍とマシャール副大統領派の反政府勢力による戦闘を機に、事実上の内戦状態にある。2015年8月いったんは両派間で和平合意したものの、今年7月にジュバで両派による大規模な戦闘が発生し、市民ら270人以上が死亡した。治安情勢などにつき、国連南スーダン派遣団も「非常に懸念している」と率直に認めている。

 斯様な事態を踏まえ、我が国会の審議では野党から「PKO参加5原則は崩壊している」「自衛隊員のリスクが高い」などの厳しい指摘も出ていた。これに対して政府側は、駆けつけ警護は「極めて限定的な場面で、応急的かつ一時的な措置として、能力の範囲内で行う」とし、活動範囲は首都のジュバ及びその周辺地域に限定している。文言的には念には念を入れている様だが、いざ戦闘などの深刻な事態が発生すれば、きれいごとでは済まされないであろう。

 

 vs  

 キール大統領   マシャール元副大統領  ジュバ市街とナイル川俯瞰

          (ネットより転用・加工)            (筆者撮影)

 

 アメリカのシンクタンク、平和基金会が発表している失敗国ランキングによれば、2014年〜2015年の2年連続で南スーダンは不名誉な1位となった。それまではソマリアがずっと1位であったが、最近は南スーダンが取って代わった形だ。2015年8月の国連調停までに約5万人が死亡、避難民は230万人以上と推定される。内戦の主因は豊かな石油資源の利権取り合いのほかに、昔からある民族対立、即ちディンカ族 vs ヌエル族の根深い抗争などがある。

 稲田朋美防衛相は駆けつけ警護の付与につき、「南スーダンの平和と安定のための活動」と言う。高尚な理念だが、今も貧しい現地では平和よりも住民の貧困からの脱却や、極端に遅れている道路などのインフラ整備を手助けするのが実のある国際貢献ではなかろうか?この辺りの実情はアフリカ固有の特殊な事情も含め、我が日本政府関係者はよくご存じない様である。

 

 こんな危険極まりない国を自衛隊のPKO部隊が出かける前に、無謀にも5年以上前の2011年9月、しかも単身で敵地(?)に乗り込んだ奇人がいる。272ヵ国・地域を旅した私ことワールド・トラベラーである。それは55ヵ国目のアフリカ訪問であった。その時の模様を以下紹介しよう。

 

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 独立わずか2ヵ月後に、民主党政権時代に日本政府が自衛隊のPKO派遣をモタモタするのを見かね、その前に現地入りした。しかし、独立直後で東京に南スーダン大使館が無いため、入国ビザの取得が最重要課題になった。先ず、成田からドバイ経由でケニアの首都ナイロビに到着し、同地の南スーダン大使館でビザ申請した。3度も同大使館に足を運んだが、現地の保証人問題で結局は取得できなかった。

 

 そこで、一か八かの勝負に出ようと、ビザ無しで南スーダンの入国を試みた。先ず、最初の難関はナイロビ空港のケニア航空のチェックインカウンターで、案の定ビザ無しでは搭乗券は渡せないとキッパリと断られた。しかし、世の中、時には嘘も方便である。「ジュバ空港で日本人の友達が身元引き受けてくれる」といい加減なことを言い、相手を信用させて何とか搭乗券を手にすることができた。

 ジュバの空港に着くと、入国審査でいきなりビザは持っているかと聞かれたので、ハッキリと「無い」と答えた。すると「100ドル払えばビザを出すよ」と若いお兄ちゃん風の入国係官が言って、あっさりと取得できた。「案ずるより産むがやすし」とはまさにこのことを言うのだが、ひょっとすれば100ドルは国ではなく、こっそりと貧しい(と思われる)係官の懐に入ったかも知れない。アフリカなら十分あり得るお話だ。

 

 さて、首都ジュバはこれと言った観光スポットもなく、地方へのアクセスも悪路などで問題あるため同国滞在はわずか3日で切り上げた。本当に短い滞在ながら、様々な出来事があった。独立後間もなくの現地は日本はじめ外国からの援助金や資金が大量に流入し、ジュバは建設ブームに沸いていた。その影響をもろに受け、外国の政府関係者やビジネスマンなどが泊まるホテルが極端に少なかった。

 筆者が苦労してやっと見つけたのがコンテナーハウスで、3畳ほどと狭い上に小さな窓が一つしかない。しかもアフリカらしく、蚊をはじめとして虫がウロウロしていた。それでも部屋代がなんと1泊120ドルとは驚きであった。気分転換にと一人でぶらりとジュバ市内を散策したが、市民は友好的で写真撮影にも気軽に応じてくれた。マーケットの近くで男たちがたむろし水タバコを吸っていたので、久し振りに吸わしてもらった。

 

        −−− ジュバを散策・観光するワールド・トラベラー −−−

 

水タバコを吸う男たちと談笑  白ナイル川に架かる橋  川畔のレストランで寛ぐ

 

 見どころの少ない首都だが、印象に残ったスポットをいくつか挙げよう。町の東側を流れる白ナイル川が、殺風景な町の風情に情緒を添える。NGOで働く日本の2人の青年に案内されたのが、この川の河畔にあるオアシス・ビーチのバー&レストランだ。ナイル河の上流にあたるこの付近でも川幅が700m〜800mはありそうで、滔々と流れる様は大河ナイルの片鱗を見せる。

 南スーダン最大の市場コニョコニョ・マーケットは市場内を歩くのが困難なくらいの混雑ぶりで、貧しいとは言えアフリカのエネルギーを実感した。商品や物資の大半は中国製、或いはケニアやウガンダ製で、国産は少ないとか。町の西外れには南スーダン独立運動の指導者であったジョン・ガランの霊廟がある。2005年ヘリコプター墜落事故で死亡したが、今も謎めいた彼の死を悼む人々が多い。 

 

  

 コニョコニョ・マーケットを  南スーダン独立運動指導者 空港近くの伝統的な家屋

  ぶらつき買い物する    を祀るジョン・ガラン霊廟       

 

 比較的好印象を持って日本へ帰ろうとした矢先、アフリカならではのトラブルがあった。ジュバ市内をあちこち観光するため、ウガンダ人運転手に案内を頼んだ。しかし、土地勘があまり無かったのであろうか、うっかり軍の管轄地に迷い込んだらしい。軍関係者は待ってましたばかりに筆者と運転手を拘束し、写真撮影を言いがかりにして1000ドルも寄こせと金銭要求してきた。また、払わなければ何日でも留置すると脅かしてきた。

 悪質なたかりであることは明々白々。しかし、過密な旅行スケジュールを考えて鋭意交渉の結果、最終的に200ドルの支払いに応じ約2時間後に解放された。その後ジュバを出発する直前に、空港でNGO関係の仕事をしている地元の青年に会い種々話し込んだ。例の軍のたかりについて聞いてみると、よくあるトラブルで珍しくないが、南スーダン人としては真にお恥ずかしい話だと謙虚であったのが印象的であった。

 

  因みに、南スーダンの超危険な旅につき、もっと詳しく知りたい方は次の筆者の著書をご愛読願えれば幸甚です。

 

  『 272の国と地域を制覇した            トラベル・イズ・トラブル

  77歳のワールド・トラベラーは            安全な旅は退屈だ!!

  たった1人で紛争地を旅した  

  

   幻冬舎 定価1,400円+税         ルネッサンス・アイ 定価1,300円+税

 

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  南スーダンは治安問題もさりながら、貧しさ故の金銭のたかりが極端に酷い国である。南スーダン政府のカモにならないよう、我が日本政府にご忠告申し上げたい。不必要且つ過分の援助は却って彼らの自立心、或いは真の独立の障害になることを忘れてなるまいと・・・.。

 また、「平和主義の日本」というブランドは、もはや世界では通用しなくなっていること認識すべきである。故に今般の駆けつけ警護の閣議決定により、武力を持つ日本から来たという理由で攻撃に晒されるリスクが増したことを銘記すべきと・・・。 

 

                     ◇◇◇  ご案内  ◇◇◇

 

 幣著書のお買い求めは、アマゾンなどインターネットショッピンや、最寄りの書店で可能です。なお、書店やネットショッピングで入手不可能の場合は、在庫が十分な世界の人形館でお求めできます。
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| 世界の旅ーアフリカ | 18:49 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - | ↑TOP
モハメド・アリ死去とキンサシャの奇跡の旅
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 今や伝説のボクサーとなった元ヘビー級世界王者モハメド・アリが、去る6月3日に74歳で他界した。筆者よりも5歳も若いが、リング内では蝶のように舞い、相手を蜂のように刺して倒した鉄人も死だけはKO出来なかった訳だ。また、リング外でも黒人の彼は戦争や人種差別に反対し、さらにイスラム教徒に改宗し、そして引退後もパーキンソン病を患うなど話題を提供し続けた。
 1週間後に故郷のケンタッキー州・ルイビルで行われた盛大な追悼式には、クリントン元大統領の政界をはじめ各界から約1万5000人が出席した。宗教界ではイスラム教のほかにキリスト教やユダヤ教などの宗教関係者が多数列席し、故人の確固たる信念や生き様を称賛した。これは元プロスポーツ選手としては異例のセレモニーと言えよう。

 アリは1960年にローマ・オリンピックで金メダル獲得後にプロに転向し、1964年に22歳で世界ヘビー級王者となった。しかし、1967年にベトナム戦争への徴兵を拒否したため、王座を剥奪されたほか試合も禁止されるなど、米国政府と長期にわたり争った。それから7年後の1974年10月30日、アリはアフリカのザイール(現在はコンゴ民主共和国)の首都キンサシャで無敵のジョージ・フォアマンを、8ラウンドKO勝ちという劇的な逆転劇で下して世界王座に返り咲いた。この試合は「キンシャサの奇跡」として今でも語り継がれるボクシング史に残る名勝負であった。
 
 このフォアマン戦からの5年間が現役選手としてのアリの全盛期とされている。その後、我々日本人の50代以上の世代なら未だ記憶に新しいであろうプロレスラ―のアントニオ猪木と戦う異種格闘技世界一決定戦が、1976年6月26日に日本武道館で行われた。3分15回戦を両者はフルに戦ったが、結果は判定で引き分けとなった。 当時の筆者は商社マンとしてクウェートに駐在中でテレビ観戦できなかったが、後刻ビデオでたっぷり観る機会があった。
 試合でアリがパンチを出したのは僅か数度のみ。猪木はアリの強打やがんじがらめのルールを考えマット上に寝てばかりいて、時々蹴りを見舞うが、立ち上がってファイトしたのは数度だけ。終始寝転がって戦った猪木と、足蹴り以外は何もなす術のないアリの「世紀の
凡戦」に対し、観客は物を投げたり罵声を浴びせた。因みに、アリは大のプロレス好きで、それまで2人の中堅プロレスラーと戦っていたのだ。両レスラーは勇敢に立って勝負したが、アリのパンチでダウンしたのは言うまでもない。

   
 モハメド・アリvsフォアマン   モハメド・アリ     モハメド・アリvsアントニオ猪木 
                (ネットより転用・加工済み)

  「キンサシャの奇跡」という名言で、いつも湧く疑問がある。それはモハメド・アリとフォアマンが、何故アフリカのキンサシャという途上国の都市で戦ったのであろうか?答えは意外にこうである。
現在でこそ極貧国のコンゴ民主だがザイールと呼ばれた当時は、ダイヤモンド、金、銀、銅、コバルト、亜鉛、マンガン、錫、ウラン、ラジウム、ボーキサイト、鉄鉱石、石炭などを産出する世界有数の鉱産資源国であった。特に、コバルトの埋蔵量は世界の約65%を占め、ウランの採掘も行われ輸出の約9割を鉱産資源が占めていた。また、ギニア湾沖に海底油田があり、原油輸出も盛んであった。
 一方、アリとフォアマンの試合開催だが、当時は高額なファイトマネーを払える興行主がどの国もいず、唯一ザイールにその興行主がおり、首都のキンシャシサで試合が行われたのだ。つまり、当時のキンシャシサは現在のドバイのような所で、世界中の金融資本が集まっていたのである。その後は1990年代の度重なる内戦などでインフラは破壊され、経済は壊滅状態となり現在は世界最貧国の一つとなってしまった次第だ。


 格闘技世界一決定戦では期待を裏切った(?)格好のモハメド・アリだが、死闘を繰り広げたキンサシャの奇跡の件は忘れがたいものがある。私ことワールド・トラベラーがそんなキンサシャを訪れたのは2002年3月。その旅の想い出を紹介しながら、不世出の異色ボクサー、モハメド・アリを追悼したい。

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 ダイヤモンドや金など鉱物資源が豊富ゆえに利権争いが激しく、「アフリカの火薬庫」と言われる国がある。それはコンゴ民主共和国であり、国際的には旧国名のザイールで知られる。面積ではアルジェリアに次ぐアフリカで2番目に大きい国に、なんと200以上の部族が住み、人口の1割以上を占める民族は一つもいない。コンゴ共和国のほかに、中央アフリカ・アンゴラ・ザンビア・タンザニア・ブルンジ・ルワンダ・ウガンダ・スーダンの合計9ヵ国と国境を接する。恵まれた鉱物資源の争奪も絡み、この複雑な多様性が頻繁に起こる内戦の主因だ。
 モブツ大統領の長期独裁政権が続いた後、1996年ツチ族を中心とするコンゴ・ザイール解放民主勢力連合(ADFL)と、政府軍との間で戦闘が始まり、翌年は大統領はモロッコへ亡命。ADFLのカビラ議長が大統領に就くが暗殺され、息子のジョゼフ・カビラが大統領を引き継ぐも戦火が拡大した。2006年に正式な大統領選挙が実施され、その後カビラ大統領は再選され民主化を進めている。しかし、同国の東部では不安定な情勢が今でも続いており、部族間の争いや資源を巡る武装勢力との対立が絶えない。
 
 さて、私ことワールド・トラベラー筆者が訪れた2002年は治安が非常に悪く、表敬訪問しようと思っていた日本大使館も閉鎖するほどであった。コンゴのブラザビルより船会社オナトラの連絡船に乗り、アフリカ第2の大河、コンゴ河(ザイール河)を渡った。15分ほどして対岸のコンゴ民主のキンサシャに着いたが、汚い船内では貧しい乗客たちの黒人特有の体臭も加わり、旅慣れしている筆者もさすがに強烈な臭いには辟易し通しであった。

  
コンゴ河を渡るオナトラ船  キンサシャの中心街を俯瞰  マーケットを散策する筆者
    
 キンサシャ随一の大通り・  聖アンヌ教会前に立つ    ノートルダム寺院
     6月30日通り        ワールド・トラベラー

 散策したキンシャサの人口は約700万人の大都会である。「アフリカのシャンゼリゼ通り」と呼ばれる6月30日通りや、下町のマトンゲ地区を中心に散策した。賑やかなマトンゲ地区では、カサヴブ通りとヴィクトワール通りの交差付近がその中心だ。アフリカ人がこよなく愛するリンガラ音楽が街中に溢れ、熱気と混沌にブラックアフリカの底知れぬエネルギーを感じた。
 しかし、街全体がなんとなく不気味さを秘め、どこでも写真やデオ撮影のチェックが厳しかった。特に怒号が飛び交うマーケットはうるさく、絡んで来る人間が多いのには驚いた。中でも「金を出せば見逃してやる」と脅し、拘束しようとする警官が多いので少々怖くなり、足早に立ち去ったほどである。世界を股にかけて旅してきた強者でも、ある種の恐怖を感じる街であった。 
 治安が想像以上に悪いため観光どころではなかったキンサシャ市内で、教会以外は特に見るべきものは無かった。とりわけ、ファティマ教会、聖アンヌ教会、ノートルダム寺院の建物がひときわ美しく、オーソドックスで格調がある。雑多な街並みに不釣り合いなくらい立派なカトリック教会が多いが、これはベルギー植民地支配の産物と言える。ほかに、紙幣コレクションのため立派な建物の中央銀行に出かけて2時間以上も待たされたが、印刷直後のようなピン札を入手でき感激したものだ。


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  因みに、キンサシャの旅の模様は、テレビや新聞で報道されない危険な紛争地帯をルポし世界平和を訴える幣著書『 272の国と地域を制覇した77歳のワールド・トラベラーはたった1人で紛争地を旅した(幻冬舎) 』で詳述している。ご興味ある方はご購読頂きたい。

        


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| 世界の旅ーアフリカ | 15:53 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - | ↑TOP
エボラ出血熱で想い出したリベリア・シエラレオネ・ギニアへの旅
10
 西アフリカでエボラ出血熱が大流行だが、アフリカの根深い貧困が浮き彫りにされた複雑な背景が興味深い。地球儀俯瞰外交と積極的平和主義を掲げる我が日本の総理と側近の方々は、ご如才なく気付いておられるのであろうか?

 8月15日世界保健機関(WHO)は、ギニア、リベリア、シエラレオネ、ナイジェリアの西アフリカ4ヵ国で感染が広がっているエボラ出血熱について、死者が1145人、感染の疑いを含む感染者は、2127人に達したと発表。
 死者の内訳はギニア 373人、リベリア 323人、シエラレオネ 315人、ナイジェリア 3人である(8月12日現在)。ナイジェリアの死者の中には米国籍の人がおり、リベリアで感染してラゴス空港に到着後に倒れ5日後に死亡した由。また、12日に西アフリカ以外でもスペインで初の死者が出た。シエラレオネでは中国人の医師ら8人が、感染の疑いで
隔離されている由。
 
 現地で医療支援に取り組む国際NGO「国境なき医師団」は戦争状態だと危機感を訴え、感染の封じ込めには少なくとも半年以上かかるとの見方を示している。一方、16日から中国・南京で開幕するユースオリンピックの組織委員会は、プールを使う競技と格闘技で感染者が出た国の選手の不参加を決めた。

 エボラ出血熱が最初に確認されたのは1976年で、中央アフリカのコンゴ民主(旧ザイール)で280人が死亡。また、ほぼ同時に現在の南スーダンでも流行し、151人が死んだ。その後ウガンダやコンゴでもあり、これまで中央アフリカ各地で20回ほど流行し、約1300人が犠牲になった由。筆者は勿論これら諸国を回っており、いずれも貧しい国ばかりだ。
 感染すると風邪に似た症状が出て、腎臓や肝臓がやられ、最後は目や鼻などから出血して死亡する。現時点ではこれと言った効果がある治療薬は無く、点滴を打ち体力低下を防ぐことぐらいのようだ。これはこの病気が散発的に貧困国で発生するため、開発に要する巨額のコストに見合うだけの新薬開発が出来ない事情による。しかし、WHOは「過去約40年で最大規模」として緊急事態宣言し、例外的に未承認薬の使用を容認した。

 
因みに、エボラウイルスの感染について、WHOによればコウモリがその自然宿主であると考えられている。具体的には、エボラウイルスに感染している人の体液や体液に汚染された物質(例えば注射針)に直接触れた際、ウイルスが傷口や粘膜から侵入することで感染する。また、西アフリカでは葬式で遺体に触る習慣があるため、患者の遺体に触れたことが大流行を誘因したらしい。
 この病気は空気で広く感染する病気ではない。
我が厚生労働省は、現地に比べ国内の医療体制や生活環境の高いレベルから考え合わせると、国内でエボラ出血熱が流行する可能性は現時点では低いとしているが、決して油断できまい。

  


 世界を股にかけて旅してきた私ことワールド・トラベラーは上記の流行国をすべて訪問済みである。今回はリベリア、シエラレオネ、ギニアの西アフリカ3ヵ国を簡単ながら紹介したい。確かに資源はあるが、依然として貧しいアフリカの実態や問題点などがお分かり願えれば幸甚である。

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 2005年12月に旅したリベリアはアフリカ最古の黒人国家で、1847年アメリカから移住した解放奴隷により建国された。当時米国のモンロー大統領の支持を受け、黒人奴隷を解放してリベリアの土地を買取り移住させた。初代のロバーツ大統領はアフリカ系黒人で、アメリコ・ライベリアンと呼ばれる子孫はリベリア全人口のわずか5%だが政財界を支配していた。一方、現地人も奴隷生活の中で「アフリカ文化を知らない黒い白人」と見做して軽蔑した。このため両者の衝突は絶えず、1980年クーデターでアメリコ・ライベリアン政権は倒され、アメリカ系黒人のリベリア支配は終わった。
 しかし政情は安定せず、1989年から2度も内戦に突入。終結したのは2003年で、この間15万人以上の死者が出た。2005年11月にアフリカ初の女性大統領サーリーフが誕生し、2011年にはノーベル平和賞を受賞した。同大統領は国際社会からの支援を得ながら、国家の再建と国民の生活向上に取り組み治安は安定化している。しかし、コートジボワールと国境を接する東部では、2010年のコートジボワール大統領選挙後の
混乱から大量の難民が流入。彼らに混ざり民兵や武器などが入ってきたとのことで、治安が悪化している。

 
 筆者は内戦が終わってから間もなく訪れたが、依然として治安が悪かった。いたる所で国連が派遣した国連リベリア・ミッション(UNMIL)のUN車両を見かけた。首都モンロビアはアメリカ南部の都市を彷彿させ、町の名前も当時のアメリカ大統領の名に因んだもの。市内を散策して目立つのが、あちこちで散見される内戦で破壊され荒廃した建物だ。特にアメリカ系黒人の聖地であったマゾニック寺院では、かつては立派であった建物が破壊されたまま放置され、内戦の深い傷跡を見て大いに不安を感じた。
 治安も悪く怖いくらいで、人々は写真撮影を嫌がる。時には写真を勝手に撮ったとして因縁をつけ、金をよこせと迫った。モンロビア最大の市場ウォーターサイドでは、売られている商品のほとんどが中国からの輸入品で、歩くのが困難なほど買い物客や通行人で賑わっていた。少々危険で汚いが、とにかくブラックアフリカのエネルギーを感じる。


  
  リベリア:モンロビアのマゾニック     リベリア:モンロビアの活気
   寺院を訪れたワールド・トラベラー    あるウォーターサイド市場


 リベリアに入る前に訪れたシエラレオネは1961年に英国から独立したが、シエラレオネ(獅子の山の意)という国名は15世紀に訪れたポルトガル人が名付けたとされる。ダイヤモンドを産出するが気候条件が最悪なため、「白人の墓場」と呼ばれた。東部のダイアモンド鉱山の支配権を巡り、1991年に反政府組織「革命統一戦線(RUF)」が政府と戦闘を開始した。1997年にはカーバ大統領を追放し、1999年に和平合意に至った。
 しかし、反政府ゲリラは次々に住民の手足を切るなど残虐な行為をしたため、1999年にPKOの国連シエラレオネ派遣団(UNAMSIL)がシエラレオネに入った。UNAMSILは反政府ゲリラの武装解除に努め2002年に戦争終結宣言が出たが、PKOが最終的に終了したのは筆者が現地入りした直後であった。

 現地に着いて先ず驚いたのが、内戦処理の復興で精一杯で貧しいため、道路や電力などのインフラが未整備なことである。ホテル、レストラン、お土産屋など観光客を受け入れる下地がまったくなく、地図すらも手に入らないので観光客は皆無に近かった。首都フリータウンは英国・カナダ・ジャマイカなどの解放奴隷の黒人たちが建設した街で、人口は100万人を超える大都会で欧米風の街並みが美しい。
 しかし、内戦の影響で発電所は破壊されたままで、慢性的な電力不足のため停電が多く、夜はどこも真っ暗になる。黒人ばかりの街頭を歩くと顔はよく見えないが、ギョロッとした目だけが光っているのがなんとも不気味であった。しかし、どこでも子供たちはカメラを持ったワールド・トラベラーを見かけると近寄り、写真撮影をせがまれた。貧しいが物乞いすることもなく、底抜けに明るい笑顔が印象的で心地良かった。


 
  シエラレオネ:フリータウン   シエラレオネ:フリータウン郊外で
     の市街地を俯瞰        小学生と仲良くする世界の旅人


 2001年10月に訪問したギニアはシエラレオネとリベリアを取り囲むような形をしており、両国より少し豊かである。「西アフリカのスイス」とか「西アフリカの水瓶」と言われ、ボーキサイトの埋蔵量も多い。旧フランス植民地の中でも、1958年に他の植民地に先駆けて国民投票で独立した国だ。
 首都コナクリはかつて「アフリカのパリ」と呼ばれたほど美しい街で、大西洋に突き出た細長い半島の先端に位置する港町だ。市場とは思えぬ立派な建物のマーケット、メインストリートの共和国通り、活気溢れるブルビニ漁港などが見逃せないスポットである。

 しかし、見どころはむしろ郊外だ。コナクリの北東300kmに位置するフータ・ジャロン高地は、雨量が多いため針葉樹林などがよく育つ。標高は1000m以上あり、「西アフリカのスイス」と言われ風光明媚である。大西洋から吹き付ける湿った空気は大量の雨をもたらし、ニジェール川やセネガル川の水源地になっている。いくつもの川は滔々と流れ、あるものは急流をつくって滝となり、豊かな水は西アフリカ最大の水力発電を産み出す。
 高地はキンディア付近から始まり、ダラバに向け高度を徐々に上げて行く。13kmほど行った途中に、大きくはないが清楚な美しさを持ち花嫁のベールのというヴォール・ド・ラ・マリエがある。朝晩が涼しいダラバはスイスの山間を彷彿させ、きのこのような形をした伝統的な茅葺屋根の集会場フーグーンバや知事宮殿、美しいモスク、近郊の素朴なグバ村などが必見である。

  −−− ギニアを旅するワールド・トラベラー −−−


 
ギニア:涼しいフータ・ジャロン高地  ギニア:ダラバ郊外の素朴なグバ村

 因みに、ギニアの名前がつく国が、アフリカにはなんと3つもある。ポルトガル植民地だったギニアビサウ、カメルーンと国境を接する旧スペイン植民地の赤道ギニア、そして旧フランス植民地のギニアである。ほかに東の方に目を向けると、インドネシアの東隣にパプアニューギニアがあり、これら4つのギニア諸国も1997年4月〜2007年3月にすべて訪問済みである。

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 最大で約90%という高い致死率の高い伝染病、エボラ出血熱の感染拡大が止まらない勢いである。医療設備や資金が不十分な西アフリカの流行国や周辺国は、感染予防措置を強化しているらしいが、万全の対策は困難ようである。隔離地域では支援の手が届かないほか、住民が食糧難に陥るなど二次的な影響も発生している。
 エボラという普段は聞き慣れない特殊な伝染病においても、アフリカの貧困が浮き彫りにされたが、実は特権階級の汚職などによる政治の貧困が大きな背景にあると言えよう。これはアフリカの全ての国を回り、熟知するワールド・トラベラーの率直な感想だ。「積極的平和主義」と声高に唱えるどこかの首脳も、このエボラ出血熱問題でメッセージを発信して頂きたいものである。

(後記)
 2015年5月8日現在の西アフリカ3ヵ国の死者数は、リベリア 4716人、シエラレオネ3904人、ギニア 2387人 合計 11007人に達した。翌9日WHO(世界保健機関)は、リベリアでのエボラ出血熱の終息宣言をした。


            ◇◇◇  ご案内  ◇◇◇

筆者(ペンネーム:高やすはる)が著した本が文芸社より発売中です。
書名は
私はワールド・トラベラー世界257ヵ国・地域を旅した男
定価は本体1、500円+税。お買い求めはインターネット(アマゾンや楽天ブックスなど)、または最寄の書店でどうぞ。
  なお、本書は単なるトラベル・ガイドブックではありません。日本の将来を憂い、 特に三流とも揶揄される日本外交に対し、ズバリ直球でもの申す本物志向の提言書であります。是非ともご愛読のほどお願いします。


 
     表紙カバー                       口絵
 
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地球儀外交論者・安倍首相の二番煎じ的(?)アフリカ外交懸念―コートジボワール,モザンビーク、エチオピア歴訪に想う
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 「地球儀を俯瞰する外交」の一環として安倍晋三首相が、10日前の1月10日から5日間コートジボワール,モザンビーク、エチオピアの3ヵ国を訪問した。エチオピアの首都アジスアベバのアフリカ連合(AU)本部で政策スピーチし、コートジボワールでは10ヵ国の西アフリカ諸国首脳たちと一堂に会い、東アフリカのモザンビークでは投資フォーラム開催を通じてビジネス関係強化に努めるなど精力的な外交活動を熟した由。

 我が外務省が挙げる今回のアフリカ訪問の成果として、その1は日本の魅力をアピールしてアフリカの真のパートナーになりえる存在感を示したこと、2はビジネス面ではトップセールの推進、その3は積極的平和主義の考えに対し各国首脳から示された支持などがある。8年ぶりの我が総理のアフリカ歴訪外交は、一応及第点が付けられるであろう。
 

 

 「地球儀を俯瞰する外交」を進めるのが安倍首相とすれば、一方「毎日地球儀を回して触れる草の根的な民間外交」を長年推進しているのが、誰あろう私ことワールド・トラベラーである。社会貢献活動の一つとして運営するプライベートミュージアム「世界の人形館」には、驚くなかれなんと40近い大中小の地球儀がある。従い僭越ながら、「地球儀外交」では半世紀近く前から世界を巡り、265ヵ国・地域を旅した筆者の方が大先輩になるかも知れない。

  恵まれた天然資源をベースにして近年高い成長率を示すアフリカは、同首相にとっては有望なフロンティアであり、アベノミクスを支える経済外交でも重要な意味を持つとか。豊富な資金力を背景に大規模開発を進める中国に巻き返えすため、同首相はこの訪問で人材育成や環境技術移転、学校や病院建設など各種振興策を一括した「官民一体」の支援を積極的に売り込んだようだ。
 

 

    −−− 「世界の人形館」にある様々な大中小の地球儀 −−−

         
    見学者が壮観と絶賛の地球儀コーナー     万華鏡地球儀もある(真ん中)
 

 

 

 一連の動きで特に目立つのは、中国への強い対抗心である。その頃に中国では外務省の報道局長が「もし或る国がアフリカ諸国を利用して中国と張り合おうとしても、決して思うようにはいかない」と牽制したが、「或る国」とはもちろん日本である。また、知日派とされる王毅外相も6日からエチオピア、ジブチ、ガーナ、セネガルのアフリカ4ヵ国を訪れた。

 海外、特にアフリカでは、実は中国の方が日本より早く進出した先覚者である。近代のアフリカ大陸は、北アフリカはフランスや英国、東アフリカは英国、西アフリカはフランスが主要宗主国であった。ほかに、ポルトガル、イタリア、ベルギー、スペインなどがある。このような歴史的な経緯に加え、一国の中で多数の部族がいる国では共通の自国語が少ないため、むしろ外国語の英語やフランス語などが公用語になる。アフリカ諸国が独立したと言っても、旧宗主国と植民地との腐れ縁はなかなか切れないようだ。因みに、第二次世界大戦後にアフリカ諸国は続々と独立したが、ヨーロッパの宗主国がほとんど撤収した後に進出したのが華僑のようである。

 


 今から41年前の1973年3月にエジプトへ商用で出張して初めてアフリカの大地を踏んで以来、5年後にエチオピア、2011年11月は最新の独立国・南スーダンを訪れるなど、アフリカのすべての国々を旅した。他の大陸や地域に比べ、治安などでハードな旅を強いられたのは矢張りアフリカで、食事面で困ることも度々あった。その時に本当に救われたのが、アフリカの各地、奥地にもある華僑経営の中華レストランだ。店主も「こんな僻地によくぞ食べに来てくれた」と大喜びで、同じアジア人として異国の地で友好を暖めた。

 時代が変わってその後は「Made in China」の中国商品がアフリカのどこでも氾濫するようになった。また、突然建設された立派なホテルや道路の施主が中国人であることを知り、中国の首脳が資源確保とトップセールスのために頻繁にアフリカ訪問を耳にすると、同国の底力に敬意を表さざるを得ない。

 

 アメリカの研究機関の調査によれば、2000年以降11年間に中国はアフリカに750億ドルもの開発投資したとか。資源開発を中心に、道路や港湾等のインフラ整備、教育や医療、金融や小売りなど多岐にわたり深く食い込んでいるまた、アフリカ諸国には100万人もの中国人が住んでいると言われ、日本人の100倍以上と圧倒的に多い。


 安倍首相の積極的なアフリカ外交も中国を懸命に追う後追いが、所詮二番煎じの三流外交にならぬようお願いしたい。「地域貢献で中国との差を打ち出す」とのアイディアは大いに結構だが、要はキメの細かい実行力で口先だけの絵に描いたモチにならぬことを切に祈念したい。

 


 さて、前置きが長くなったが、本題のコートジボワール,モザンビーク、エチオピアについてお話したい。ワールド・トラベラーは勿論これら3ヵ国を訪問済みである。先ず、象牙海岸を意味するコートジボワールは、1997年2月と2000年11月の2度訪れている。面積は32万2346k屬如日本の約6分の5で、人口は約2100万人。カカオ豆や天然ゴムなど安定した農産物生産があり、1960年にフランスから独立後はアフリカとしては驚異の経済発展を遂げた。特にカカオ豆の生産は世界一で、当時の日本の高度経済成長に例えられ「黒い日本」と呼ばれたこともある。

 しかし、2002年9月に政府軍と反政府勢力との対立が発生,反政府勢力が同国の北部・西部を支配下に置き,事実上国を二分する状態となった。その後和平交渉が度々行われ、2012年に内乱は収束した。

                    −−− アビジャンでの想い出スナップ−−−
   
  アビジャン摩天楼を俯瞰   アビジャン郊外の村   公衆洗濯場で女性たちに

              
         子供たちと仲良く     会うワールドトラベラー

 筆者が初めて同国を訪れたのはこの対立が起こる前で、ベルギーのブラッセルからコートジボワールの最大都市アビジャンに着いた。1983年にヤムスクロに遷都するまでは同国の首都で、人口は約280万人(当時)と最大都市で西アフリカの商工業の中心でもあった。「西アフリカのニューヨーク」と呼ばれ、ちょっとした摩天楼がそびえる近代的な大都会だ。

 異色のスポットがある面白い街である。街外れの原っぱの野外に大きな公衆洗濯場があり、毎日大勢の人々が洗濯にやって来る。その大部分は女性たちだが、ここでは彼女たちにはお喋りを楽しむ絶好の場となっている。陽気な彼女たちはアフリカに有り勝ちなチップも要求せず、気軽に写真撮影に応じてくれた。市内では、聖ポール大聖堂のとても教会とは思えぬ垢抜けした斬新なスタイルがひときわ目立つ。


 一方、アビジャンの西郊外では、ギニア湾岸のラグーン(潟湖)に面するティエグバ村は、貧しいが素朴な水上集落村だ。裸足や裸の子供達が多く、人懐っこい笑顔が可愛いかった。また、43km東にあるグラン・バッサムは19世紀後半のフランス植民地時代の首都であった町でアイボリーコースト(象牙海岸)沿いのビーチが美しかった。

 

 1975年にポルトガルから独立したモザンビークの面積は日本の2倍以上もある79万9380k屬如⊃邑は約2400万人。アフリカ大陸南東 部に位置し、モザンビーク海峡の対岸にマダガスカル島がある。独立後以来17年間続いた内戦では100万人近くが死亡したと言われるが、1992年に終結後の政情は安定している。石炭や天然ガスなどの鉱物資源に恵まれて近年は好調な経済成長が続き、日本には高級エビを輸出している。


 ワールド・トラベラーが同国を旅したのは2001年11月で、首都のマプトなどを観光した。人口が約140万人(当時)のマプトはモザンビーク最大の近代的な都市で、植民地時代に建てられたポルトガル風の建物も多く残る。海岸湿地帯を埋立てた工業地区と丘上の住宅地からなる。18世紀にポルトガル人によって創建された街はロレンソ・マルケスと命名されたが、独立後は現在のマプトに改称された。

 

 1975年の独立から20年続いた共産主義政権の失政や内戦などで国中が荒れ放題と思ったが、現地入りして見るとその後遺症はほとんど残っていなかった。全般的に整然としており、アフリカらしからぬ雰囲気があった。

 マプトはポルトガルの植民地時代を思わせるヨーロッパ風の建物と高層ビルが多く、アフリカにしては清潔で魅力的な街なので驚いた。ひときわ人目を引くのが、宮殿のような気品がある優美な中央駅と通称インディアン・マーケットと呼ばれる中央市場が立派で美しい。自然歴史博物館は野生動物の剥製などの展示が充実し、意外に見逃せない穴場的なスポットだ。

   −−− マプトを散策・観光するワールド・トラベラー−−−


   
            マプト鉄道駅前で         自然歴史博物館内で 


 36年前の1978年5月に商社マン(三井物産)として商用で訪れた高原の国エチオピアは、2001年3月と2007年2月にも旅するほど大好きな国の一つだ。アフリカ大陸でヨーロッパ列強による植民地分割が行われた時代に、リベリアと共に唯一独立を保ち続けたアフリカ最古の国である。それだけに貧しくとも、誇り高い国民だという第一印象を持った。また、絶対君主として世界的に知られた1930年即位のハイレ・セラシェ皇帝が、1974年に陸軍の反乱で退位。その後社会主義国家になりメンギスツ議長の恐怖独裁政治がスタートした直後で、国中には圧迫されるような重苦しいムードが漂っていたのが忘れ難い。

 肝心の売り込み目的の育児粉乳は現地で相当の需要があったにも拘らず、貧しいエチオピアの極端な外貨不足で契約出来ず、最貧国の一つと言われる厳しい現実と商売の難しさを改めて知らされた。


     標高の高いエチオピア高原で初めて経験した軽い高山病、東アフリカで一番大きくて活気がある市場マルカート、他国にない独特のユリウス暦、珍しいキリスト教の一派・コプト教、クレープ状パンなどの珍しいグルメなどは、アフリカ大陸の多様性を知る第一歩となった。アディスアベバのホテル滞在中に外から聞こえてきた日本の民謡に似たスローテンポで哀愁を帯びた音楽にも、信仰と伝説の国エチオピアに一層の親近感を覚えた。

 観光での見どころは、何と言ってもエントト山である。「(ケニアの)ナイロビは一年中春、アジスアベバは一年中秋」と言われる。エチオピアの公用語、アムハラ語で「新しい花」を意味するアジスアベバは、標高が2355mもある。そのため赤道近くに位置するにもかかわらず、年間を通じて涼しい。市内から北へ車で30分ほど上り、オーストラリアから移植されたというユーカリの林を抜けると、標高3200mのエントト山の頂上に着く。そこはアジスアベバの市街地などを一望する絶好の展望台になっており、展望台から眺めた当時の首都はまだ伝統的な茅葺のトンガリ屋根の民家が多い素朴な町並みであった。

 


 郊外では、 アディススアベバの南約90kmにあるグラゲ族の村ティヤ、柳に似た細い木の枝で作られた家が多いガラ族の村アラマヤなどを訪れた。市街地を一歩出ると、茅葺のトンガリ屋根の家々と畑の素朴な田園風景が広がる。歩いている人々のほとんどが裸足であったのを、今もなお鮮明に記憶する。

 リタイア後の2001年と2007年に旅行した時は、面積が113万3380k屬汎本の3倍もある広大なエチオピアのほぼ全土を回った。多様性に富む国土ゆえに見どころも多く、今回のブログではカバーし切れないので、機会を改めて詳しく紹介したい。乞うご期待!
 

 

       −−− 懐かしき36年前のエチオピア −−−
  
アジスアベバ:メキシコ広場  アジス郊外:ティア村で   アジス郊外:ガラ族
付近よりエントト山を遠望  子供達と手をつなぐ      の農家を訪ねた筆者

 


 最後に、警鐘を鳴らしたいことがある。半世紀近く世界の旅を続けて来たが、この間に只一つの例外を除き世界は大変貌した。その例外とは昔と変わらないアフリカ、特に地方の貧しさである。資源には恵まれているが、国富が国民、特に貧しい人たちに分配されない不条理な現実である。私腹を肥やすことに腐心する政治家や権力者が多く、汚職も蔓延るからだ。

 さらに大国や他国の不必要とも思える干渉が加わるので、複雑な内戦になり長期化する。我が国もアフリカへの援助は大いに結構だが、アフリカ人の大半は旧宗主国との絆が断ち切れず、基本的には依然として欧州志向であることを銘記しなければならぬ。このことを踏まえたプロフェッショナルな援助外交や真のアフリカ通の人材活用などが望まれる。
 

 

           ◇◇◇  ご案内  ◇◇◇
 

 

 ワールド・トラベラーのプライベート・ミュージアム、「世界の人形館」の見学者は実に多彩です。国際的なヴァイオリン奏者、アンナ・スタルノフスカさんもその一人。日露混血の才能豊かな彼女がプロデュースする、親子で楽しめるクラシック・コンサートが、千葉県我孫子市で次の通り行われます。世界の人形館はこの素晴らしいコンサートに賛同し後援しています。
 今回は東日本大震災の被災木から作ったヴァイオリンを1000人が弾きつなぐプロジェクトに参加する、大震災復興支援チャリティーコンサートです。
酷寒の折柄ですが、是非共ご来場下さい。お待ちします。


 クリックで挿入   
   コンサートのチラシ        アンナさん       けやきプラザ玄関 

  
     ☆☆☆ 千の音色でつなぐ絆コンサート 
☆☆☆

日時: 2014年1月25日(土) 17:00 開演 (16:30開場
19:30頃終演) 
場所:我孫子市けやきプラザふれあいホール
アクセス:常磐線・千代田線 我孫子駅南口徒歩1分
入場料:一般 1000円 子供(4歳〜小学生) 500円   
演奏者:アンナさんをはじめ10人ほどの奏者のほとんどが女性という異色の
顔ぶれ。また、そのうち3人が小学生。
お問い合わせ:TEL: 0297−68−9517 ジョイ・ファミリーコンサーツ

 

 ワールド・トラベラーが館長を務める世界の人形館では、265カ国・地域の民俗人形、紙幣とコイン、仮面、壷、置物、絵画、木彫り、地球儀、時計、照明ランプ、絵皿、万華鏡などを多数展示しています。ご興味ある方はご遠慮なく、お気軽にご来館下さい。慈善活動につき、入館料は無料です。但し、セキュリティなどのため、下記要領で必ず予約をお願いします
TEL:04−7184−4745 又は Eメール: 
ko-yasu@maple.ocn.ne.jp


 

 

 

   −−− 国境の無い平和な「世界の人形館」の館内風景 −−−

 

 

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   メインホール   民俗人形:中南米等コーナー   地球儀コーナー
 

 

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| 世界の旅ーアフリカ | 17:54 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - | ↑TOP
マンデラ元大統領死去と魅惑的な南アフリカへの旅
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 1990年代前半までアパルトヘイト(人種隔離政策)が代名詞になった国がある。アフリカ最大の工業先進国、南アフリカ共和国(南ア)がその国である。昨日の12月5日に南アのネルソン・マンデラ元大統領がアフリカでは珍しい95歳の長寿を全うし死去した。「虹の国を目指した男」「不屈の闘士」など、同氏を讃える言葉が数多くある。
 

 同国で黒人初の法律事務所を開いた弁護士の同氏は多数派の黒人で、国民の1割ほどの少数派の白人支配層が多数派の黒人やインド系など非白人の権利を抑圧したアパルトヘイトに反対する運動を始めた。しかし、1962年に48歳の時に投獄され、国家反逆罪で終身刑を言い渡されてロベン島に収監された。約27年間余の長い獄中にありながら人種差別と闘い、1990年に釈放され3年後にノーベル平和賞を受賞。 

 1994年ついに黒人初の大統領として選出され、1948年に法的に確立されたアパルトヘイトは撤廃された。その後マンデラ氏は国民の融和を訴え、多民族が共存する平和な”虹の国”を目指して民族対立の解消に努めた。さらに、南アをアフリカ第一の経済大国に発展させたが、大統領職は潔く1期5年で引退して同氏らしさを発揮した。どこかの政治家は見習うべきであろう。

     
    
             ネルソン・マンデラ元大統領                      ロベン島
                                      
 (ネットより転用・加工済み) 


 私ことワールド・トラベラーは1994年7月に初めて南アを旅行して以降、3回訪れている。その旅の模様を紹介する前に、南アフリカ共和国の概略に触れてみたい。アフリカ大陸の南端に位置する同国の面積は122万1037k屬如日本の約3.2倍もあり広い。人口は約5000万人でアフリカ大陸では4番目で、金やダイヤモンドなど産出する資源大国として有名。

 同国のユニークさを象徴するものがいくつかある。まず首都で、なんと3つもある。行政府はプレトリア、立法府はケープタウン、司法府はブルームフォンテーンにあるが、国際的にはプレトリアが認知されている。言葉も英語、アフリカ―ンズ(オランダ語をベースにマレー語やバントゥー語などの影響を受けた言語)、ズールー語(黒人の民族語)など、合計11言語が公用語になっている。また非白人の内訳は、黒人が約77%、カラードと呼ばれる混血が9%、インド・アジア系が約3%である。
 

 1994年7月に初めて南アに出かけた旅は、サハラ以南のアフリカらしさを体験する最初のアフリカ紀行である。香港と南アのヨハネスブルグ経由で、先ず東アフリカの玄関口で「野生の王国」と呼ばれるケニアへ向かい初めてスリリングなサファリを体験。その後は石造建築が有名な内陸国ジンバブエ、世界三大瀑布の一つビクトリアフォールズの豪快な景観を満喫後、故マンデラ氏の大統領就任とアパルトヘイト撤廃が決まって間もない南アフリカ各地を周遊。港町ケープタウン、ワイナリーで有名なステレンボッシュ、アフリカ最南端の喜望峰などを回り、ヨハネスブルグと台北経由で帰国の途に着いた。
 

 南アでの見どころはなんと言ってもケープ半島一帯で、喜望峰自然保護区が観光のハイライトになった。中でもケープ・ポイント展望台が一押しだ。美しい喜望峰を挟んで、眼下に真っ青なインド洋と大西洋の2つの海流がぶつかり渦を巻き正に絶景。ハウト湾からはアザラシやカモメが生息する通称シール・アイランドへ船が出ている。島には上陸しなかったが、船はゆっくりと島の周囲を回るのでたっぷりと観察できた。南ア第2の大都市ケープタウンでは港湾地区のビクトリア&アルフレッド・ウォーターフロントで眺めたテーブルマウンテンが一幅の絵を見るように美しい。夜はシグナル・ヒルから見たケープタウン市街の夜景が、宝石のようにキラキラ輝き幻想的であった。

        
           ケープ半島:ケープ・ ポイント          ケープタウン:テーブルマウン

           より喜望峰を望む筆者            テンを背にウォーターフロントで
 

 2度目の南ア訪問は1999年2月で香港とヨハネスブルグで乗継ぎ後、英国から独立した旧ローデシアのジンバブエの謎の石造建築遺跡グレート・ジンバブエ、ボツワナのアフリカ最大の象の生息地チョべと大湿原オカバンゴ、ドイツから独立した旧南西アフリカのナミビアで野生動物のゲームサファリに興じた後、最後に南アの近代的な街プレトリアで観光。ハードであった長旅の疲れを癒し、秘境巡りの旅を終えた。

 行政府の首都であるプレトリアには、歴史的な建造物が多い。南アフリカの偉人と言えば誰もがクルーガーを挙げ、ポール・クルーガーの家はクルーガー元大統領が1900年まで暮らしたものだ。街の心臓と呼ばれるチャーチ・スクウェアは、緑の芝生が鮮やかな広場である。ビクトリア様式のメルローズ・ハウスは、アフリカーナーとイギリス軍が戦ったボーア戦争の停戦協定が結ばれた館だ。郊外の丘の上に建つフォールトレッカー開拓者祈念堂は南アで最も有名な記念碑で、英国から独立までの苦難が刻まれたレリーフが見逃せない。

         
         プレトリア:チャーチ・スクウェア              プレトリア:フォールトレッカー
             
で憩うワールド・トラベラー                 開拓者祈念堂のレリーフ


 2001年11月〜12月に訪れた3度目の南ア旅行は最もエキサイティングで、故マンデラ氏と縁のあるものであった。香港経由でヨハネスブルグに到着し、同地をベースに「アフリカのスイス」と言われ南アに四方を囲まれた小さな王国レソト、南アとモザンビークに囲まれた小さな内陸国スワジランド、ポルトガルの植民地時代を思わせる建物が多いモザンビーク、鉱物資源に恵まれながらも「富める貧乏国」の異名を持つザンビア、野生動物の王国タンザニア、インド洋に浮かび古代魚「シーラカンス」で有名になったコモロを回った。その後ヨハネスブルグに戻り、南アの各地を観光し香港経由で帰国した。

 南アでの見どころは先ずヨハネスブルグのソウェト。アパルトヘイトの象徴であった黒人専用居住区で、今も約120万人の黒人が暮らす。白人の母語であるアフリカーンス語による授業に反対し住民蜂起したり、マンデラ元大統領も一時期暮らしたが逮捕された。その実情を知ろうと特別ツアーに参加。高層ビルが林立するヨハネスブルグの中心を通過してソウェトに入った途端、貧しい露天マーケットが現れ雰囲気がガラッと変わった。元大統領の名にちなんで付けたマンデラ・ビレッジには、「シャック」と呼ばれるトタン屋根のバラック小屋のような粗末な家々がひしめき合う。電気や水道も無く、トイレは共同使用との由。
 

 因みに、ソウェトには博物館になっているマンデラ氏の前妻の家と2番目のウィニー夫人が暮らした家があった。ガイドと一緒に散策を始めると、どこからともなく大勢の子供たちが後をついて来て人だかりができた。貧困のためか学校へ行かない子供たちが多く、貧しさにもめげず人懐っこい笑顔がむしろ痛々しく感じるほどであった。

 南アではほかに、ゲームドライブのサファリが楽しめるクルーガー国立公園、南ア最大のテーマパークがあるサン・シティも印象に残った。
 
       
        ヨハネスブルグ:ソウェトで黒人の            サン・シティ:ザ・ロスト・シティ

      子供達などと仲良くする世界の旅人           で寛ぐワールド・トラベラー
 

 マンデラ元大統領が掲げた理想は世界から絶賛されたが、その後のアフリカの現実はその高遠な理想とは程遠いものがある。即ち、豊かな資源に恵まれ経済成長も一応順調に遂げるが、私利私欲に溺れた権力者や腐敗した政権の国が多いため貧富差は広がるばかりだ。

 南アも白人vs非白人の対立が無くなった代わりに黒人間で経済格差が生じており、ズマ大統領政権に近い一部の黒人が特権を得て裕福だ。特に国民の10%を占めるブラックダイヤモンドと呼ばれる黒人中間層の台頭である。マンデラ氏の拠点であった与党のANC(アフリカ民族会議)も腐敗が蔓延り、治安は悪化する一方だ。悪名高き大省都ヨハネスブルグの治安は依然として悪いと聞く。斯かる諸問題を抱えている同国だが、マンデラ亡き後どのような舵取りがされるのであろうか?少々気懸かりでもある。

(追記)
 12月10日ヨハネスブルグのサッカースタヂアムで追悼式が行われ、市民5万人以上が詰めかけたほかに、約100の国・地域から首脳者が出席した。主な顔ぶれはオバマ米大統領、オランド仏大統領、キャメロン英首相、わが日本は皇太子さまなど。空前の規模の式典になったのは特に人種間の融和を力説したマンデラ氏の偉大さを改めて示したと言えよう。(12月11日)

 

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              ◇◇◇  ご案内  ◇◇◇

  

筆者(ペンネーム:高やすはる)が著した本が文芸社より好評発売中です。
 書名は「私はワールド・トラベラー 世界257ヵ国・地域を旅した男」、
  定価は本体1、500円+税。書店でお買い求め、又は注文できます。
  
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   なお、書店やネットショッピングで入手不可能の場合、常に在庫が十分あります
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主なテーマ世界中の絶景と世界遺産、危険な地域、少数民族との出会いや
 グルメを紹介しつ つ、元・商社マンならではの鋭い洞察力と豊かな知見でチェルノブ
 イリ原発事故の 国々、恐怖の拘束を受けたリビア、タックス・ヘイブンの裏表、ドバイ
 今昔物語、尖閣 諸島と世界の実効支配、北朝鮮問題の根源、アルジェリア人質
 事件などを読み解き日本の将来と外交を憂う
など、異色の世界旅行記です。

  尚、本書は単なる旅のガイドブックではありません。日本の将来を憂い、
 特に三流とも揶揄される日本外交に対し、ズバリ直球でもの申す本物志向
 の提言書でもあります。是非ともご愛読のほど宜しくお願いします。    

   
  
            表紙カバーと帯              口絵

 

 ワールド・トラベラーが館長を務める世界の人形館では、265カ国・地域
  民俗人形、紙幣とコイン、仮面、壷、置物、絵画、木彫り、地球儀、時計、
  照明ランプ、絵皿、万華鏡などを多数展示しています。ご興味ある方は
  ご遠慮なく、お気軽にご来館下さい。慈善活動につき、入館料は無料です。
  但し、セキュリティなどのため、下記要領で必ず予約をお願いします。
  TEL:04−7184−4745 又は Eメール: 
ko-yasu@maple.ocn.ne.jp


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| 世界の旅ーアフリカ | 14:13 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - | ↑TOP
ガーナってどんな国?
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  過日81歳になられても、ほとんど連日の如く元気にアップされる生涯現役のブロガー(と期待する)、持永相子さんのリクエストをお受けし、今回は西アフリカの平和な国、ガーナを紹介したい長らくお待たせしました。

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皆さん、ガーナ Ghanaってどんな国か、ご存知ですか?チョコレートの原料であるカカオ豆の世界的な産地国であるのはよく知られているが、野口英世が死んだのはどこか、アナン前国連事務総長が生まれたのはどこの国かを知っている人は、案外少ないかも知れない。答えはガーナであるが、それ以上のことを知っている人はむしろ少数派であろう。

 私ことワールド・トラベラーは2000年10月〜11月の短期間に3度もガーナに入国しているが、この時は同国だけを訪れたのではない。
 悲しい奴隷貿易の歴史を持つ「黒いアフリカの縮図」と言われ、古代や中世に繁栄した黒人王国の伝統と文化が息づき、大地に響く太鼓の音楽や祭りが好きな民族が多いアフリカの西部と中央部。一挙に9ヵ国を探訪する苦難の旅の途中で、日本とは極めて縁の深いガーナを訪れた。       

 往復路共にロンドン経由で現地入りし、ナイジェリアのラゴスやガーナのアクラをベースに移動した。黄熱病を研究した野口英世とチョコレートで日本人に馴染みのある「黄金海岸」の地ガーナ、サハラ砂漠南縁のサヘル地帯に位置する内陸国ニジェール、ガーナ北方にあるヒョウタンが生活に欠かせない内陸国ブルキナファソ、「ミニ・アフリカ」と呼ばれアフリカのすべての魅力が凝縮されたカメルーン、アフリカ中央部に位置する砂漠の国チャド、南北に細長い小国トーゴ、かって「奴隷海岸」と呼ばれたベナン、アフリカ最大の人口と石油資源を持つナイジェリアを回った。当初の予定にはなかったが、フライト問題で昔は「象牙海岸」と称されたコートジボワールにも立ち寄るハプニングもあった。


  
ガーナ:ブルキナファソとの チャド:マニのシャリ川で  カメルーン:ルムシキの
  国境近くの子供たち   ボート遊覧を楽しむ筆者  不思議なマンダラ山地

 ガーナでの主な訪問地は、首都のアクラ Accra、首都の西185kmにある世界遺産のエルミナ Ermina、かってのアシャンティ王国の都クマシ 
Kumasi、巨大なボルタ・ダムがある世界最大の人造湖、ボルタ湖 Lake Voltaなど。
 
 ここで、ガーナの概要を説明したい。東にトーゴ、北にブルキナファソ、西にコートジボワールと国境を接し、南は大西洋に続くギニア湾に面する。面積は23万8537k屬汎本の約3分の2で、人口は約2400万人(日本の5分の1)。1957年にイギリスから独立した経緯もあり、英語は公用語で、ほかにアシャンティ語などのアカン諸語ほかいくつかの部族語がある。
 GDPは1人あたり2200ドルで、世界では中位だが、アフリカでは上位にランクされている。政治的にも独立以来安定しており、アフリカ諸国の中では、比較的治安の良い国と言える。

 印象に残った観光スポットなどを紹介しよう。

 先ず、首都アクラは人口が170万人近い大都市で、ガーナの政治・経済・文化の中心地だ。黄熱病を研究した野口英世の没地として知られる。英国の西アフリカ植民地の拠点となった街には、今もなおガーナ人に人気がある野口博士(1876〜1928年)ゆかりのモニュメントがいくつかある。ガーナ大学の医学部内にある野口記念研究所は立派な建物と設備を誇り、日本人の研究者と歓談。博士の偉業の裏話など、興味深く聴いた。
 博士が研究していたコルレブ病院の一角に野口記念公園があるが、その隅に博士の胸像がひっそりと立っている。公園の前にある医療学校の一室には、博士が使っていた顕微鏡や写真など遺品が展示され、遠く離れた息子に宛てた手紙に書かれた母親、しか子の愛情に胸を打たれた。
 
 ほかに、市内のエンクルマ広場でひときわ目立つのが、ガーナ建国の父と呼ばれる初代大統領エンクルマの廟。アフリカ団結を目指したパン・アフリカニズムの発展に指導的な役割を果たし、その後は多くの国々が独立した。
 
 北郊外にあるボルタ湖のボルタ・ダムは日本の技術と援助で建設されたもので、巨大な人造湖とダムに驚いた。1961年から4年かけて造られた湖は、全長400km、面積は8500k屬發△蝓▲ーナの国土の約4%を占める。このダムのお陰で頻繁にあった停電もなくなり、隣国に売電もして貴重な外貨獲得源となっている。

  
    アクラ:独立広場    アクラ:世界的な野口博士 アクラ:エンクルマ廟 
                  の胸像と仲良しの筆者
 
 次に、アクラの北西約200kmに位置するクマシは人口約100万人のガーナ第2の大都市で,アナン氏の出身地でもある。17世紀中頃アシャンティ王国の都になったプライドの高い街は、19世紀に英国支配に抵抗したため、イギリス軍に焼き払われた歴史を持つ。全体的にエネルギーを感じる街中でも、アフリカ最大級の市場、ケジェイタ・マーケットは超巨大な市場で圧巻と言うほかない。混雑する市場の中に入り込んだら、抜け出すのが至難の業である。
 ほかに、マンヒヤ宮殿、近郊にある名産のケンテクロスの村なども訪れた 
 
 クマシ郊外では、南東へ約30kmにあるボスムトゥイ湖は、クレーター内で静かに佇む水深100mのカルデラ湖である。フィリピンのタール湖に似た美しい景観は、筆舌に尽くし難いほどだ。因みに、およそ7万年前に始まり、1万年前に終了した一番新しいヴュルム氷期は、この熱帯地方まで広がっていたとされる。
 
 コートジボワールとブルキナファソとの国境近くにあるラババンガのモスクは13世紀に建てられたガーナ最古のイスラム教礼拝所だ。それほど大きくないが、中近東が本場のモスクとは違った感じで、土着的な臭いがするのが良い。
 筆者がモスクの周りをうろうろしていると、大勢の子供たちが集まって来た。ビデオカメラに興味を示して歓声を上げたが、地元の長老たちの執拗な金銭要求にはいささか辟易した。


  
 クマシ:巨大なマーケット        ボスムトゥイ湖            ラババンガのモスク

 ガーナは独立以前に金の産地であった事から「黄金海岸」と呼ばれ、15世紀以降にヨーロッパ人によって60近くの要塞が築かれた。金産出量が落ちると、カメルーンなど共に悲惨な奴隷貿易の場となった。現存する代表的なものが、1482年最初に西アフリカ進出のポルトガル人により建立された町エルミナにあるセント・ジョージ要塞。この要塞から少し離れたギニア湾の砂浜のビーチから眺めると、素晴らしい絶景が楽しめる。
 
 エルミナの東20kmほどにあるケープコースト要塞はかって黒人奴隷の積出港で、約3世紀におよぶアフリカの奴隷貿易で合計1500万人以上が大西洋を渡ったと言われる。真っ青なギニア湾に面した海岸の景勝地に純白の要塞が建ち、錆付いた赤黒い大砲が海に対峙するように置かれ、3色の彩りが鮮やか。2000名の奴隷が詰め込まれた狭い収容所、脱走を試みたが閉じ込められた独房、新大陸への積み出しの船着場など、今でもルーツを辿る旅としてアメリカからの訪問客が絶えないとか。
 
 旅の楽しみの一つはその土地で賞味するグルメだ。ガーナはキャッサバやヤム芋、米、プランテーン(料理用のバナナ)、パイナップルやマンゴーなど、様々な野菜や果物を栽培している農業国である。また、牛をはじめ、豚、羊などの飼育や、海岸地方では漁業も盛んで、豊かな自然の恵みを利用したシチュー料理のバリエーションも豊富である。
 ガーナ料理の代表的なものとして、主食のキャッサバやヤム芋、プランテーンを杵と臼を使ってつぶして作ったフフ、納豆のようでマッシュポテトに似た感じのバンクー、ワチという豆の炊き込みご飯、ジョロフ・ライスという肉などを添えた炊き込みご飯などがある。スパイシーなものが好きな筆者は、肉が少し入ったちょっぴり辛いスープにフフをちぎって浸して食べたが、なかなか美味かった。


  
   ケープコースト要塞    エルミナ:ビーチの後背は     ガーナ料理:フフ

   を散策する筆者       セント・ジョージ要塞

 「アクワバ」は、ガーナの現地語、アカン語で“ようこそ”を意味する。同国を訪れた人たちはこの挨拶で迎えられるほど、
ガーナ国民のもてなしの心は有名である。政治的安定が長く続いており、アフリカの中でも特に勤勉な国民性を持つと言われる。国連事務総長を輩出するなど、世界では安全で平和な国との評価が高く、温かい笑顔で旅人を迎えてくれるのが何よりも嬉しい。アフリカにしては、少々物価が高いのが難点だが−−−。
 一度ならず、何度も再訪したくなる国、ガーナとはそんな国である。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

第19回日立総合経営研修所庭園公開のご案内
 日時:5月19日(土)午前10時〜午後4時(入場は午後3時まで)
     なお、雨天の場合 5月20日(日)
 会場:日立総合経営研修所 我孫子市高野山485 (我孫子中学校前)
 アクセス:JR常磐線天王台駅、成田線東我孫子駅下車 共に徒歩15分
 会費:100円 (小学生以下無料)
 園内サービス:「藤の庭」で茶菓の接待、コカリナの演奏
 主催:我孫子の景観を育てる会  後援:我孫子市
 協力:蠧立総合経営研修所  蠧京クリエイト
 (ワールド・トラベラーは我孫子の景観を育てる会の会員です)  


筆者のプライベート・ミュージアム、世界の人形館
は、245カ国・地域の民俗人形、紙幣とコイン、仮面、壷、置物、絵画、木彫り、地球儀、壷、時計、照明ランプ、絵皿、万華鏡などを展示しています。ご興味ある方はご遠慮なくご来館下さい。お待ちします。但し、セキュリティなどのため、下記要領で予約をお願いします。
 TEL:04−7184−4745 又は Eメール:
ko-yasu@maple.ocn.ne.jp

次回のブログはリクエストがあり次第書き込みます。
 ご希望の国・地域があれば、ワールド・トラベラー
として、小さな無名の国でもお受けします。ご遠慮なく、ご自由にリクエストして下さい。

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